マタイ福音書では

新約聖書では、マタイ福音書5章で、神に従う者の姿がくわしく描写されています。神に従う人は、「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心の清い者、平和を実現する者」、そういう者達であり、そういう者達が受ける結果は「天の国、慰め、地を受け継ぐ、満たされる、憐れみを受ける、神を見る」です。特に最後の「神を見る」という描写は、かなり衝撃的です。といいますのは、旧約聖書で、神は燃え尽きない柴の中から「モーセよ、モーセよ」と呼んだ場面が描かれていますが、呼ばれた時にモーセは、神を見ることを恐れて顔を覆ったと伝えられているからです。モーセは、神から呼ばれているにもかかわらず、なぜ神の顔を見ることを恐れたのか。それは、あまりにも神は清い存在であるので、その清い存在である神を見るならば、汚れている人間はその汚れのゆえに、あまりにも自らの汚れがはっきりと示されるがゆえに滅びてしまうと恐れたからであります。旧約聖書では、神を見るというのは特別なことでありました。
まさに「神を見る」そのことは、心の清い者だけに許されていることです。マタイ福音書において、「神に逆らう者」とは迫害する者のことです。そして、11節−12節には次のようにまとめられています。
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」