報酬を得ていなくても、人には「つとめ」がある。

宗教改革者は、たとえば主婦が台所に立ち、食事の用意をする。あるいは家の掃除をする。「その仕事の中で、その人は神に仕えている」と言いました。それぞれ神によって召された「つとめ」があります。特定な仕事を持っていなくても、報酬を得ていなくても、「一人の人間がそこにいる」ということは、そこに家族を持ち、家族の中にあり、社会の一員としてさまざまな形で人々に接している。そのこと自体、それが与えられたその人の「つとめ」です。金銭の報酬があるなしにかかわらず、男性であれ女性であれ、一人の人間として、さまざまな立場にあることが「神に召された聖なるつとめである」と、宗教改革者達は主張しました。
 つまり、収穫感謝は、単に耕作者とか勤労者ということだけでなくて、一人の人間(男性・女性・夫・妻・親・子)であるという、そのことが、神によって召された存在であり、その自分の立場において、それぞれが「つとめ」を果たすことにあります。それぞれが、自分の立場の中で神に仕えているという状況の中で、今日の聖書は、すべての人に向かって、働くことの目的や意味について語っています。