神の養いの中で

 マタイ福音書6:31以下に「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」とあります。思い悩みの現実の中に投げ出される時、人生の行き詰まりを感じている時、私達はその絶望の淵に立って私達を救おうとされている「一人のお方」に出会います。絶望の淵にこそ神様の守りがあることを知らされます。もうそこから先に進む事のできない、そのような時にその淵に立ち、私達と共にいて下さるイエス・キリストと出会います。

神様は私達に必要なものをすべて御存知です。それは、私達が思い悩み、自分のことを考えている以上に、神様が私達のことを考えて下さっていると言い換えることが出来ます。その確かな証拠として、神様はその独り子イエス・キリストを私達に与えて下さいました。人生に行き詰まり、自分の事しか考えないような罪深い私達の現実の中に、神様は主イエス・キリストを遣わされたのです。イエス・キリストは神の子でありながら、私達の罪のために十字架に架かって死なれました。ですから、私達が今立っている(生かされている)場所は、何の保証も無い場所ではありません。

そこは、イエス・キリストの十字架の死によって私達の罪が赦され、神様が私達の父となって下さり、守り養って下さっている場所です。現実の只中で、この場所こそが、神様の養いの中にあります。