「富は神からの賜物であり、恵みである」という本質

さて時代が進みまして、穀物を多く栽培し、実りを蓄積する者が現れてきます。又、羊や山羊を繁殖させて多くの群れを持つ者も現れてきます。富める者が現れてきます。収穫は神の賜物でありますから、富める者は、神から大きな祝福を与えられた者であり、逆に、貧しい者とは神の祝福にあずからない者、信仰の薄い者と、ユダヤの中ではみなされるようになりました。
しかし「すべては神から与えられたもの、エデンの園で与えられたもの、ノアの洪水の後に与えられた食べ物すべては、神からの賜物であり神の恵みである。」・・・そのような本質が、やがて見失われていきました。富は自らの手腕で勝ち得たものと考える者が、少なからず登場する社会となっています。特に穀物や家畜など、目に見える姿で富を所有し、認知した時代から、時間が経つにつれて、例えば、「富」というものが「貨幣」という形で所有される経済時代に進みますと、「富は神からの賜物」という直感的な理解が薄れてきました。そして、そうではなくて、「富は自分の力で得たもの」と考えるようになってくるのです。