2007-09-01から1ヶ月間の記事一覧

牧師の家庭に生まれて

私は牧師の家庭に生まれ、行きたくなくても日曜日毎に教会に行き、祈りたくなくても家庭の祈りで祈るという生活をしている内に、神様の言葉を信じる信仰が芽生え、聖書の言葉から励ましや慰めや力が与えられて今日までまいりました。そんなに裕福ではない,む…

神様の言葉には力がある

神様の言葉には力があり人を生かす力があることを、役人の息子のいやしの出来事も語っておりますし、聖書全体で繰り返し繰り返し教えてくれます。誰かに愛されているということ、私は愛されている存在だと感じられること、このことが人を勇気づけ、生きよう…

この話の中心は

この話の中心は役人の信仰、見ないで信じる信仰、イエス様の言葉を信じる信仰、ということではありません。彼の信仰は決して賞賛されてはいません。この話の中心はあくまでもイエス様です。もっと正確にいうなら「イエス様の言葉の力」です。イエス様はヨハ…

しるし

この出来事は二度目の「しるし」であるとヨハネは記しています(54節)。 奇蹟がしるしといわれるのはイエス様が救い主であることを示しているからです。イエス様が救い主であることを明らかにして、それによってイエス様が救い主であることの栄光を表したの…

同じ時刻にいやされた

役人がイエス様の言葉に対する確信に満たされて歩いている途中、迎えのしもべ達から息子が生きていることを教えられました。そして息子の病気が良くなった時間を聞いてみると「あなたの息子は生きる」と言われた同じ時刻であったことを父親は知るのです。イ…

「自分に」

口語訳聖書では「その人はイエスが自分に言われた言葉を信じて帰っていった。」となっています。この役人は今ここで必死に願っている「自分」に向かってイエス様が言われた言葉としてしっかり受けとめて帰っていったのです。 聖書の言葉を自分に語っている言…

新しく生きる

どのように新しいのでしょうか。病気が治ったという新しさは勿論です。けれどもそれだけではなく、「イエス様の言葉には力があってイエス様の言葉で生かされたという信仰と喜びのある所」に行きなさい、というふうに私には感じられます。そう言われた役人は…

「帰りなさい」

「帰る」とは、もと居た所に戻るということですが、ここでは戻るより「行きなさい」を表す言葉が使われています。「あちらに行きなさい」ということです。あちらとは「新しい事態」が待ち受けている所、新しい事態とは「あなたの息子は生きている」というこ…

skillによらない生き方

では技術ではない生きる力とは何なのでしょうか。今日読んでいただいた聖書の箇所に目を向けながら、考えてみたいと思います。 ガリラヤのカナで水をぶどう酒に変えるという最初のしるしを行なったイエス様は、再びカナに戻られて第二のしるし「王様の役人の…

さらに

私達を生かしている原動力の一つに誇り・名誉・自尊心があります。人より優れている点、強み、立派な点(家柄、学歴、経済力、高価なものを沢山持っている)など、人より少しでも優れていることは私達を強くさせる、ということもあります。しかしそれらは、…

大人も同じ・・

生きることへの問題は、年をとるにつれて大人にも起こってきます。病気や老い、死の問題が私達を襲ってきます。生きる力が弱くなります。人間はいつの時代、いつの年齢にあっても、skillがあっても、生きる困難さがつきまとう、それが私達人間です。私達は将…

スキル(skill)

「生きる力」といいますと、どうしても一種のskill(技術)のように取られてしまいます。skillは、熟練した技術、上手、腕前、技能、技と辞書にあります。生きる為skillを身につける、出会う問題にそのskillを時に応じて使い分けて立ち向かい問題を解決して…

生きる力を身につける

最近耳にする言葉に「・・力」というのがあります。昔から学力、能力、体力、理解力、集中力、忍耐力など言われてきましたが、最近では「生活力」「人間力」「友達力」などと言われます。これは新しいカリキュラムのもとで、子供達に生きる力を身につけさせ…

はじめに

私は東京の幼稚園から大学院まであるキリスト教主義学校で30年聖書の教師をしてきましたが、しばらく前から校長(高校)という立場で仕事をしております。そこで今日は、学校の中で感じたことから説教をさせていただきたいと思います。

 4章46−54節

46 イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き…

正しく理解し、従う。

私達の伝道所は、自由な個人が互いに愛し合う「本当のキリストの弟子」(ヨハネ8:31)から成る教会を目指しています。その為にはイエス様の教えを正しく理解し、正しく従うこと以外にはありません。「生身の人間だから仕方がない」などと妥協せず、イエス様…

十字架の意味を知る

ある神学者(関根正雄氏)が、教会の中で人をつまずかせる者は、十字架がわかっていない、と言いました。十字架のない所では行為が評価され、立派な信仰を目指すようになるというのです。人が行為で救われるなら十字架は必要でなくなります。人は律法を行な…

戦いは終らない

「つまずきは避けられない。」(7節)のです。それゆえ、つまずきに対する戦いは終ることはありません。

つまずきの原因を切り捨てよ

8節以下では、この世の罪の誘惑に自分自身の肉体がひきずられて つまずくようであれば、断固たる決断をもって肉体を切り捨てるように(悪を避ける為には最も高価なものをも捨てよ)と教えています。この厳しい言葉は、山上の説教「体の一部がなくなっても、…

教会の中で・・

つまずきの問題は、著者マタイの教会にあったことが考えられますが、コリントやガラテヤの教会にもありました。パウロは相手をつまずかせない為にどのようにすべきかを「ローマの信徒への手紙14章」や「コリントの信徒への手紙8章,10章」で教えています。…

「世は人をつまずかせるから不幸だ」

昔も今も、この世には人々を神様から離れさせる誘惑が数え切れないほどあり、それらは避けられないとあります。しかしもし私達が人々のつまずきの石となるならば、「わざわいなるかな」(説教題)です。

つまずく

「つまずく」とはイエス・キリストの福音から離れる、信仰を捨ててしまうことです。つまずかせる者とは、信仰者を福音から離れさせてしまう人です。そのようなことをする位なら、その人は深い海に沈められた方が良いというきびしい言葉がここにあります。

はじめに

前回、天の国に入るには心を入れ替えて子供のようになること(地位を求めず、無条件の信頼の中で生き、偉くなろうと思わず、ありのままで、偽善がなく,貪欲でなく、自分にふさわしいことで満足するetc.)(18:3)を学びました。今日は「つまずき」について…

 18章6−9節

6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。7 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。8 もし片…