2009-04-26から1日間の記事一覧

この世のことに向かう態度と礼拝に向かう態度

私自身、かつて信仰生活の初めの頃は、礼拝には半ば義務的に行っていました。しかし信仰の友の、「礼拝に出席した後には、コンサートの後の高揚感、いや、それ以上の充実感が与えられる」との言葉を聞いて、考えが変わりました。コンサートやスポーツの試合…

人の子は安息日の主

律法は、神様が憐れみを覚えられる人間の為に与えられたものです。人間が「○○を守れ」という人間の意図を含む規則に支配されるなら、それは主客逆転であり、神を神としない偶像崇拝になります。今日の旧約聖書イザヤ書58:13-14には、神に従う道とは自分の欲…

神の安息にあずかる

かつて自分がいた「神様のいない世界」では、いかに束縛と不自由の中におかれて苦しみ辛かったか、いかに一時的なものにすがっていたかを静かに深く探る時、神様の恵みにあずかってからの自分が、いかに安息を得、落ち着いた豊かな気持に満たされているかを…

イエス様は神の御子

ダビデは偉大な王でしたが罪深い一人の人間です。一方イエス様は神の御子としてこの世に来られ、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という御声を天から受けられました(1:11)。そして「時は満ち、神の国は近づいた…

はじめに

今日の聖書は、イエス様とファリサイ派の間に起った「安息日論争」といわれる大問題の一つです。ファリサイ派の人々は、イエス様の弟子達が麦の穂をつんで食べた行為を「収穫」(労働)とみなして攻撃しました。神様の憐れみなど豊かな恵みを伝えるのではな…

 2章23−28節

23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。25 イエスは言われた。「ダビデが、自分…

 58章13−14節

13 安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら14 そのとき、あなたは主を喜びとする。わ…