6章4−15節
4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、
7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。
8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、
9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
10 あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、
11 自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、
12 あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。
13 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。
14 他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。
15 あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。
15章33−41節
33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。
36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。
37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。
41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
百人隊長
ローマ軍の百人隊長というのは、百人程度の兵をとりまとめる責任者、兵士の命を預かる現場責任者でした。戦いのない時は兵士全体をまとめる等,軍の規律のかなめとなり戦時は最前線に立って指揮をとる勇者でした。百人隊長の戦死率は低くなかったといわれています。
十字架刑の執行責任者としての百人隊長
なぜイエスが十字架につけられなければならないのか。イエス・キリストは何を語り、何をしたのか。百人隊長はある程度承知していたでしょう。今日私達が聖書から教えられるイエス・キリストの姿をある程度理解していたと想像されます。しかも彼は現場責任者です。十字架刑を命じられて、それを責任をもって遂行しなければなりません。総督ピラトが、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて既に死んだかどうか尋ねた(マルコ15:44)とあるように百人隊長はむごたらしい刑の執行責任者であり、彼を取り囲む群衆の注目を浴びていた者です。おそらく彼は全身の神経を働かせて、イエス・キリストの十字架を見つめていたことでしょう。その百人隊長が十字架上のイエス・キリストが大声で「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになるのですか」と叫び、息を引き取る姿を見るや「本当にこの人は神の子だった」と語ったのです。
「本当に」
「本当に」という言葉は強い確信を表す言葉です。別の場面ですが十字架にイエス・キリストがかかる直前のこと、祭司長や民や長老達が遣わした人々が剣や棒をもってイエス・キリストを捕え、裁判を開き、死刑宣告をしようとした時のことです。弟子のペテロは逃げ去りましたが、やがて遠くからついていって事の成り行きを見ようと思い、裁判が行われている中庭に入って潜んだということがありました。ところがそこに一人の女中が近寄ってきてペテロを見て「あなたもイエスと一緒にいた」と叫びます。するとペテロは皆の前で「何を言っているか私にはそんなことはわからない」と打ち消したのです。すると別の人々も来て「確かにおまえもあの連中の仲間だ。言葉使いでそれがわかる」と言いました。ペテロがイエス・キリストを裏切る場面です。
「知る」と「合点がいく・わかる」とは違う
さて、百人隊長の心の中に起きた変化についてさらに考えてみたいと思います。1864年(明治維新の4年位前)のことですが、明治維新の代表的な人物で、思想家である横井小楠(しょうなん)という人物が「思う」ということの重要性について次のように語っております。「人はただ単に本を読んで知識を得るということではなく、それを自分自身で思う、というようなことがなくてはならない。多くの本を読むだけで終るならば、帳面調べのようなものである。読んだ後にそれを思うということによって、その内容を自分のものにすることが出来る。いわゆる合点しなければいけない。知ることと合点するということとは違う。」
他方、最近のことですが、2002年に出版された「『わかる』ということはどういうことか」という題の本があります。著者は神経内科医で、大学で教えている「山鳥」という先生であるそうですが「目や耳から入ってくる知識は意識するにせよ、無意識にせよ、どんどん私達の頭や心の中に入って蓄積されていく。しかしそれだけでは本当にわかったということにはならない。経験の中で知ったことが記憶され、蓄積され、整理され、筋が通った時に、人はわかったということになるのだ」と言うのです。そして次のように記しています。「『納得する』という言葉があります。『なるほど』と思うことです。『わかる』の別の表現です。あるいは『合点がいく』とも言います」。
興味深いことに、150年前の横井と同じことを主張しているのです。すなわち「知る」ということと「合点」がいくということとは違う。重要なのは、合点がいく・わかる、ということだと言うのです。
百人隊長と十字架
振り返って、百人隊長の姿と重ね合わせたいと思います。彼はイエス・キリストの言葉や行ないを聞いて知っていました。時には実際に目撃したかもしれません。知識は少なからず蓄積されていたのです。しかしイエス・キリストが神の子である。人の罪の救いをもたらす方である、ということに納得し合点していたわけではなかったのです。軍人としての職務を忠実に担い、十字架による死刑執行を遂行しました。だが、イエス・キリストの最後を目の当たりにした時、これまでの知識と経験が整理されて筋が通ったのです。イエス・キリストのそばに立ち尽くす中で「合点した」、「納得した」のです。その彼の口を突いて出てきた言葉が、「本当にこの人は神の子だった」であります。イエス・キリストの十字架が、百人隊長の心を変えたのです。
私達の信仰
さて、私達もイエス・キリストを知っています。聖書には次のようにまとめた形で紹介がなされています。
「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、
正しくお裁きになる方にお任せになりました。
そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(ペテロ一 2:22−25)。
これが私達に示されているイエス・キリストの姿です。そのことを私達は聖書の言葉によって知っています。私達は知る者として毎日の経験を積み重ねています。特に十字架の出来事は、私達の合点すべき事柄として提示されているのです。納得する、信じる、ということによって、十字架のイエス・キリストは、ただ知るだけではなくて私達の内の一部とされます。
聖書に「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」(エフェソ3:17)と書いてある通り、十字架のイエス・キリストを信じる時、それはイエス・キリストが私達の内に存在する時ともなるのです。