2011-01-01から1年間の記事一覧

11章1−11節

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つ…

9章9−10節

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。 わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦…

福音にふさわしく生きる

私達がこの譬えから学ぶことは、私達に与えられている福音の恵み・喜びを、イエス様という私達のご主人の為に、使って増やすことです。具体的には、イエス様のことを伝え、イエス様の教えに従って生きること。自分を喜ばすのではなく、イエス様に喜んでいた…

譬えの意味

この譬えで家の主人とはイエス様のことです。「王の位を受けて帰る」とは、イエス様がこれからエルサレムで受難され十字架の死と復活の後、天に昇られ、神の右に座すという「神の栄光を受けられて」、やがて再臨と言う形で戻って来る、という長期の不在の予…

しもべの報告

最初の僕は1ムナから10ムナ儲けたと報告します。10倍です。王は喜び、褒美として10の町の支配権を与えます。最初に託した1ムナに比べると想像を越える大きな委託です。次の僕は1ムナから5ムナ儲けました。5倍です。そして3番目の僕も報告します。彼は1ム…

たとえ話

話は、ある立派な家柄の人が王の位を受けて帰る為に、遠い国に旅立つことから始まります。旅立つ主人は、10人の僕を呼び、1ムナずつ分け与えて、主人の不在中、このお金で商売をするように命じます。ムナはギリシャの銀貨で、100ドラクメに相当します。1ド…

はじめに

今日の譬え話は、ザアカイの家に立ち寄られたイエス様が、そこに集まっていた人々に話された話であると考えられます。この話の前提として、「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたから」とあります。つまり、エルサレムに向かうイエス様に従ってき…

19章11−27節

人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠…

78編1−8節

【マスキール。アサフの詩。】わたしの民よ、わたしの教えを聞き/わたしの口の言葉に耳を傾けよ。 わたしは口を開いて箴言を/いにしえからの言い伝えを告げよう わたしたちが聞いて悟ったこと/先祖がわたしたちに語り伝えたことを。 子孫に隠さず、後の世…

信じ、求め、憐れみを受け、感謝し、主を愛し、主に従う。

バルティマイは、長年、盲人ゆえに物乞いをして生きることを強いられ、苦しみと絶望、困窮に対して忍耐を続ける中で、救いを求めていました。叫び続けることができたのは、自分の苦しみはイエス様によって絶対救われる、との信仰を持ち続けることが出来たか…

「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

彼は癒されました。すぐ見えるようになったのです。彼は自分の何が問題であるかを知っていました。彼はイエス様を救い主と信じ、治して下さると信じて呼びかけに喜んですぐ応じました。そして自分の願いをはっきりと言い表し、治していただきました。そして…

「あの男を呼んで来なさい」

バルティマイの叫びをイエス様は聞かれ、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。そこで人々は、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と、今度は招きの仲介をしています。バルティマイは、その言葉に喜び、上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様の…

バルティマイの信仰

「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」(47節)との彼の叫びは、彼の信仰告白です。ユダヤ人達は預言者の言葉を通して「メシアはダビデの子孫から生まれる」と信じていました。バルティマイの、イエス様への呼びかけは、「メシアであるイエス様!」…

はじめに

イエス様が、十字架という受難を受けるべき場所・エルサレムを目的地として、一行は旅をしています。そしてあと20数キロという町エリコに来ていました。町を出ようとしていた時、一人の盲人バルティマイが、イエス様一行が来ていることを人々から伝え聞きま…

10章46−52節

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんで…

29章11−14節

Tわたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。 わたし…

兄息子

他方、弟の帰宅を喜び迎えることの出来なかった兄についても、イエス様はくわしく語っています。兄は、弟の為の祝宴が開かれていると聞いて怒り、なだめる父親に、自分がどんなにこれまで働いてきたかを訴え、父親の不公平さをとがめます。兄息子は、正しい…

神の愛

父親とは父なる神様のことです。家出し、堕落した弟息子は私達人間のことです。父親のもとにいれば安全で平安の日々が保証されているにもかかわらず、弟息子は自由を求め、家を捨て、自己の欲望を満足させる為に財産を使い果たしてしまいました。同じように…

帰宅

そして、家には雇い人がいて豊かに食べていたことを思い出します。彼は、父に赦しを乞い、自分も雇い人の一人にしてもらおうと決心して自分の家に向かいます。帰って来た息子を、まだ遠く離れていたのに父親は見つけて、憐れに思い、走り寄って抱きます。息…

「放蕩息子のたとえ」

今日の聖書は、有名なイエス様の譬え話の一つです。二人の兄弟がいて、弟は、父親が元気でいるのに自分の遺産相続分を要求し、家を出て遠くに行き放蕩の限りを尽くします。無一文になり、住んでいた地方が飢饉に襲われ、食べるのに困り、ある人の所に身を寄…

はじめに

日本キリスト教団では、10月の第一日曜日を「世界宣教の日」として、宣教師の方々を覚えて祈ります。宣教師の方々からも、ご自分の活動について報告があり、毎年教団から冊子が送られてきます。現在、ベルギー、ドイツ、インド、インドネシア、台湾、カナダ…

15章11−32節

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国…

37編7−9節

沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。 怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。 悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。

二つの譬え話

イエス様は、この後、「塔を建てる人」の話と、「戦いに行く王様」の二つの譬え話をされて、イエス様の弟子になろうとする者は、先ず自分にその覚悟があるのかどうか、自分がこれから立ち向かわなければならないあらゆる事柄を想定し、腰を据えて考えること…

自分の十字架を背負ってついて来る者

「十字架を背負う」という表現は、刑場に赴く死刑囚の姿です。死刑囚として刑場に向かう者は、家庭・社会・今迄の業績・社会的信頼など、これ迄生きて来た場所から切り離され、身に付けてきた全てのものが取り外されます。 イエス様の背負われた十字架は、私…

第一のものを第一に

イエス様は、第一のもの、「あなたの創り主である神様からの召命」を最優先にする覚悟が、あなたにありますか、と、ここで問うているのです。エフェソ書(5:21−)では、夫婦は互いに仕えあい、夫は妻を愛するように教えており、父親は子供を怒らせないよう…

弟子の条件

「憎む」とは、憎しみを持つことのように想像しますが、これは、「第一のものを第一にすることを妨げるすべてのもの」を「より少なく愛する」ことです。私達人間は情に弱く、ともすると優先順位を入れ替えてしまうことがあります。すなわち、イエス様に従う…

一時的か、本物か。

この、イエス様の言葉は、大勢の群衆がイエス様を慕ってついて来ていた時の言葉です。イエス様についていけば、いつでもイエス様の話を聞くことが出来、その教えは耳に心地よく響き、イエス様と一緒にいると不安や恐れからも解放されたのでしょう。しかしイ…

14章25−35節

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 自分の十字架を背負ってつい…

50章4−9節

主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。 打とうと…