2013-01-01から1年間の記事一覧

「だれでもわたしのもとに来なさい。」

イエス様は、父である神様の御計画に従って歩んでおられるだけなのに、そのことを理解しない周りの者達の罪で責められ、多くの苦しみを受けられました。いかに苛酷な役割だったことでしょう。それでも主は、忍耐されました。もしそのような試練が自分に訪れ…

身代わりの犠牲とあがない

イエス様は、恩赦になる「バラバ」のために、身代りに犠牲となられました。それは一人の人間「バラバ」のためだけに限らず、神様を無視して生きる「この世」のことを第一にして「神様を二の次」にして生きる姿勢を変えることの出来ない、罪に捕らわれた私た…

ローマ兵士の罪

ピラトがイエス様の死刑判決を下した結果、ピラトの配下にある兵士達は、図に乗って、被告人イエス様を傷つけました。鞭で相当傷ついておられたにもかかわらず、イエス様の服を自分達の冗談で脱ぎ着させたり、茨の冠を造ってかぶせたり、葦の棒で叩いたり、…

神ではなく、人を見たピラト

過越祭における恩赦(囚人一人の解放)は、そのような背景のもとで、総督ピラトの人気取りの政策の一つだったのでしょう。ピラトのもとに押しかけて来た「群衆」は、恩赦を利用して、暴徒として投獄されていたバラバ(恐らく政治犯)の釈放を叫びました。そ…

はじめに

イエス様は、同胞のユダヤ人達の有力者達から成る最高法院での裁判に於いて、ご自分を神の子とした「冒とく罪」により「死刑」の宣告を受けました。当時、ローマ帝国の支配下に置かれていたユダヤでは、ローマの許可がなければ死刑執行は許されないため、最…

マルコ福音書15:6−20

イザヤ書53:6−12

復活

「復活」は、「天上」のことがらです。私達は地上で肉体をもって生きており、天上のことは聖書を通して、又、信仰を通して知る以外、道はありません。私達の知識は一部分であり、復活については、おぼろにしか映らない鏡を見るようです(第一コリント13:12)。 …

「あなたたちは聖書も神の力も知らない。」

イエス様は、サドカイ派の質問は大変な思い違いからきており、それは、彼らが聖書も神の力も知らないからであると断定しました。彼らは、「天上」のことを「地上」の延長としか考えませんでした。しかし復活の時には「男も女もなく天使のようになる」とイエ…

サドカイ派の質問

今朝の聖書は、「復活」を信じないサドカイ派の質問と、それに対するイエス様の返答です。質問とは「もし復活があるなら、再婚した兄弟達にとり、女は誰の妻になるのか」です。この問いの背景には、家名が絶えない為、又、家の財産を守る為、子供のないまま…

霊の命

三つの命とは、体の命、精神(こころ)の命、霊の命です。テサロニケの手紙に、「あなたがたの霊も魂(口語訳では心)も体も何一つ欠けたところのないものとして守られるように」との、祈りの言葉が記されています。神様を知らない人々は、自分の中に霊の命…

はじめに

本日は、召天された方々を覚える記念の礼拝です。毎年、11月の最初の日曜日の召天者記念日を迎える度に、私は信仰を与えられて生涯をおくることが許されているキリスト者の幸せを神様に感謝しています。なぜ幸せかと申しますと、ここに飾られている写真の方…

マルコ福音書12:18−27

詩編105:1−11

主イエスと共に生きる

「神に望みを置く」 佐々木哲夫先生(東北学院大学) 創世記2:15−17・?テモテ6:17−20*はじめに 本日は収穫感謝を覚えての礼拝です。今の季節は、丁度、果物や穀物の 実りの季節の時ですから、果物や穀物の収穫感謝ということを連想致します。特に日本では…

ヨハネの手紙一 4:8−11。

「愛することのない者は神を知りません。神は愛(アガペイ)だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではな…

罪を赦して義とする

ルターは、ゲッセマネでキリストが、「死ぬばかりに悲しい」(マタイ26:38)と、苦しみもだえて祈られた(ルカ22:44)祈りの中で、キリストは、私達が不条理だと思っていることを、私達に代わって涙を流されていると、言いました。人間の無理解、人間の苦…

神の愛・・「キリストが十字架につけられた」

今朝、招きの言葉「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ福音書9:13)を読んでいただきましたが、この言葉も重要なキリストにおける「神の愛」の表現だと思います。その神の愛について、学んでみたいと思います…

ルターの主張

討論の中で、ルターは、「人は、信仰のみによって罪が赦される。信仰は、神の恵みによって与えられる。『誰も、聖霊によらなければ、信じることは出来ない』(第一コリント12:3)」と語りました。 「信仰義認」とは、キリストを信じ、キリストに信頼するこ…

はじめに

私達の教会は、プロテスタント教会です。カトリック教会は、ローマ教皇を立てて出来た教会ですが、プロテスタント教会というのは、当時の堕落したカトリック教会から離れて、「聖書に帰った」キリスト教であるということが出来ます。プロテスタント教会は、…

マタイ福音書9:13

詩編53:2−6

「神の愛」 倉松 功 先生(元 東北学院院長)

宗教改革記念礼拝

「今や、恵みの時、今こそ救いの日」

感謝すべきことは、扉はまだ閉められていないということです。「今や、恵みの時」とは第二コリント書の言葉です(6:2)。イエス様は、世の思い煩いや富への誘惑、困難や試練などが、私達に予備の油を忘れさせる要因として、種まきの譬え(13章)で教えてお…

「だから目を覚ましていなさい」

イエス様は、「だから目を覚ましていなさい」(13節)と言われます。 ここでは、ともし火を灯し続ける用意の出来ている状態を「目覚めている」と言われます。私達は神様を信じイエス様を信じて、聖書に書いてある通り、イエス様が再び来られることを信じて待…

油は分けてもらえない

愚かな、思慮が浅いおとめ達は、ランプには燃やす油が不可欠であることを忘れている人達のことです。自分達のランプの油が消えかかって、はじめてことの重大さに気付き、あわてて予備の油を用意していた思慮深いおとめ達に助けを求めました。が、断られてい…

譬えの意味

この譬え話は天の国の譬えです(1節)。花婿とはイエス・キリストのことです。10人のおとめ達は、私達のことです。信じる者はすべて天の国に入れると考えている者達に、イエス様は入ることが出来る「賢い、思慮深い者」と、入ることの出来ない「愚かな、思慮…

「その日、その時を知らないのだから。」

このたとえ話は、花嫁に付き添う10人のおとめ達に光をあてています。10人共、自分達は祝宴に招かれて出席出来ることを信じて疑わなかった人達です。しかしこの内の5人のおとめは、祝宴の喜びに加わることは出来ませんでした。花婿の到着が遅れたことにより、…

はじめに

ユダヤの結婚式は、この時代、夜から始まっていたということで、花嫁は友人達と自宅で待機し、花婿が迎えに来るのを待ちます。花婿が花嫁の自宅近くまで来ると、花婿の友人達が先触れとして、花婿がきたことを大きな声で触れ廻ります。その声を聞き、花嫁の…

マタイ福音書25:1−13